幸せの記憶

◆幸せの記憶が、過去の幸せの記憶が、もう思い出せない記憶もあるかもしれないけど、幸せの記憶があれば、人は生きていけるのだ。

もうすっかり忘れてしまったかもしれない、直ぐには記憶の底から甦って来ないかも知れない、幸せの記憶。それさえあれば、生きていける。

人をどうやって赦す事が出来るのか。自分を苦しめるに苦しめた者をどうして赦す事が出来ようか。出来ないがそれを放っておけばいいのだ。苦しみの記憶も消えはしない。

だから、幸せの記憶がないと人は生きていけない。自分を苦しめた記憶、それを上回る記憶がないと生きていけない。それがなければ泣いて生きるしかない。やがて泣き止んで蹲るしかない。

 

◆辛い時にもう思い出せなくなった時に私の命は終わるのだろうか。生きる力がもう出てこなくなるから。生きることは喜びで無くなればもう価値はないと思うのだろう。祖父のように。

永遠の命はない。中川家も若い者、青年期の者、壮年期の今が人生の盛りの者、みんな戦争で死んでいった。戦争責任者は責任を取っていない残念な国がこの国だ。シレっとするな。

生活ができる物資の豊富な現代に生きる人の人生の幸せは、当時と違って、客観的というよりは主観的なものになっているであろう。さらに情緒的になっているのが現代だ。

 

◆子供の心の傷が、親のそれと同じだとは、ルサンチマンを持ったもので我が子を持ったものでないと決してわからないであろう。子供がいないのに少子化を論じても、教育を論じても空理空論が多いであろう。諭吉も学問の勧めを自分の子孫に向けても書いたのであろう。私ももちろんそうだ。子と肉体も心も別であるものの、やはり一体なのだ。わが子がいれば生きる力が出るのはみんな同じであろう。他の動物にも当て嵌まることが多かろう。

 

◆幼馴染と近隣の野山を駆け回ったり谷川で遊んだ幼少期の記憶、学校生活の摩擦を救ってくれた優しい母の記憶、生活に疲れた時に救ってくれた父の記憶、などのそれらの記憶が、私が生きる縁であり、子供に伝えたい生きることは楽しむこと、生きることは慈しむこと、生きることは自らのそのまんまの裸の生に感謝する事、それが私の今のどうしようもない深い悲しみや絶望を抱えても生きている理由である。

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