漱石の最も嫌いだったのは岩崎だった。理由は?

漱石の随筆や書簡を読んでいると、ほとんど第三者の悪口は出てこない。

しかし、漱石が最も嫌いであったのはおそらく、金に物を言わせて、或いは組織の大きさをバックに、高圧的であろうと逆に作戦的な慇懃無礼であろうと、社会的に存在している者には大きな怒りがあったものと思われるがどうであろうか。嫌いだった岩崎財閥については、著書の中でおそらく唯一、三重ビックリマークがついている。

私は、京都に引っ込んでいる一介の自営業者に過ぎないが、私のような吹けば飛ぶような存在は、いつも上の漱石の感慨を心に反芻しながら生きているのだ、もちろん今日も。

ある意味最も辛い日であったよ、私に対して東京の巨大組織の担当者は、これぞの権力をちらつかせ、これぞの訴訟遂行力を、つまり金と弁護士を抱えていることをチラつかせ、最終的に従わせようとするのだ、巧妙に心理誘導して。

全くの一方通行で、こちらの誠実な話や文書など聞く耳を持たず、金が狙いの慇懃無礼で、これが俺らのルールさと迫り、実は心底相手を見くびっているのだ。そりゃ没落した中川家の末裔の私は弱いわな。

京都の神泉苑の中川家は大事な大事な一家の大黒柱の男性たちを次から次へと、第2次世界大戦で、アジアの南方作戦に赤紙で呼び出されて送り込まれ、マラリアで、撃沈されて、戦ってみんな死んでいったよ。中川家は没落した。それが権力のなしたことでなくて何であろうか。同じ日本社会の構造だ。

弱い者は、いつも従うしかないのだ。

中川家の再興なぞあり得ない。私もこんな風に東京だけでなく京都からさえも都落ちして西山に住んでいる。

現官僚でなくて元官僚からも先日は、権力の残滓を投げかけられて脅かされるだけ脅かされた。妻子の生活が目に浮かび唇を噛みしめて帰ってきた。

こうやって明日からも生きていくのか。

漱石でさえも、生きることは恥をかくことと言ったが、私の場合はどうなる。恥だけでなくて、汚辱に塗れて生きている。

もう若さもない、何かにチャレンジする勇気もない。

呆然と目の前の光景を眺めるだけだ。

それは屈辱であり、悲嘆であり、絶望なのだ。

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