故郷での卒業式と船着き場での別れ【2010-08-04の日記】
私は、故郷の中学を出てから、ある進学校である高校に通学するために故郷を15歳で出た。
その頃の故郷は過疎地であったことは確かであるが、今よりは数十倍活気があった。
中学も2クラスあって、卒業時には、数名が就職した。
村には仕事があっても、修行に関西などに出て行くのが通例であった。
そんな村に卒業式の日がついに来た。
私も、一人だけ進学校で学ぶために村を出た。
また、大工などの修行のために就職するのに、数名も村を出た。
そのものは、卒業式が終わると1週間もたたないうちに村を出た。
信じがたいことであろうが、半永久的に別れるような感覚であった。交通の便も悪く、もうめったに会えないことは分かっていたから。
3月の雪の残る中で、船着き場から級友が就職のために出て行った。
テープやお別れの品を持って、別れを告げた。
ほとんどの級友が泣いていた。私も。
私も、その後まもなく、ほとんどが故郷の高校に進む中で、村を出た。
その時になぜか母は忙しくて下宿先まで来なかった。母方の祖母が、その伯父と下宿まで送ってくれた。
祖母は、着てすぐに、部屋をきれいに掃除してくれた。もちろん今はいない。ありがとうございました。合掌。
私は、祖母らが帰って行くときにやはり泣いてしまった。これから、一人で下宿生活が始まるのが寂しかった。
しかし、今思うと、この時に母は私のことを怒っていたのでないかと思ってしまう。
母は、やや情緒的になっていた。私の不用意な一言で、涙ぐんだのを覚えている。何を言ったのかは不覚にも覚えていない。
それから、初めて故郷に帰るのは、わずか1カ月後のことであるが、全く別の世界に行ったようであった。
余りに故郷が新鮮であった。小学校、川、家々、そして故郷の人々。
1日の滞在が、あっという間に過ぎてしまった。未練たっぷりに、下宿先に戻った。
それからというもの、このころは尋常でないホームシックにかかってしまった。
しかし、勉強は面白かったし、学校も面白かった。学ぶべきことはたくさんあった。
英語や数学、国語等は特に知的興奮を覚えた、先生も十分に良かった。
しかし、故郷に勝るものはやはりなかった。私は、交通費もなかったので、夏までは帰れなかった。
夏に帰った時は、ともかく友達に会って、ただ話をするだけで楽しかった。
何の欲もなかった。ただ楽しかったのだ。故郷の中でいることが。
しかし、その後私は、本当に家を出てしまった。東京に行き、京都に来てしまった。
父や母が繰り返し「遠くに行くな」と言っていたにもかかわらず。
もうすぐ盆である。日帰りでもいいから、墓参りと父や故郷の人々に会ってきたい。