今日は戦争の実話です。戦争実話を読みたくない方、関心のない方はパスして下さい。【2012-02-18】

私は、小さいときは神童のように扱われていた。

スポーツも勉強もできた。

 

大人は、私を大人扱いをして大人同様に世間の話をした。

 

殊に、祖父は好んで私に体験した戦争の話や中川家の戦争で亡くなった方の話をしてくれた。

 

今日は、今まで話したり書いたことのない戦争の話をしたい。

 

私の祖母の弟は、人間魚雷で順番を待っていた。

死ぬ順番を。

神になる順番を。

その話もよく聞いた。

子供には怖い話であった。

 

 私の祖父の弟達は戦争で死んでいった。

死んだ場所もわからない、南の海である。

手帳が残っている。

子供に残そうとおいて行ったのか。

軍人としての誇りを語ってあった。

日本を守るという。

京都の中川家は、神泉苑近くで製造工場で栄えたが戦争で大黒柱を相次いで殺されて崩壊した。

 

 1931年の満州事変や1937年の北支事変の戦場話は祖父などからよく聞いた。

一部は伝聞であったが生々しい戦場の話は大変怖かった。

そして、祖父が自分が実際に戦場に行ったことに加えて、山口県の防空隊に入って戦った話も聞いたが、食べ物の話は悲惨であった。

戦争が終わって帰ってきたときは、村人に祖父は「骸骨」と呼ばれたそうである。

骨と皮だけであった。

また、軍隊の理不尽な上官の暴行には本当に嫌気がさしていたようである。問答無用であった。

自殺しようと何回か本当に思ったようである。

 

幼少のころは、突然玄関に「元の部下」が現れた。

「軍曹殿、○○ただ今参りました」であった。

びっくりした。

祖父は、「戸を閉めろ」と私に言った。

戦争の傷にやられていたのであろう。

 

また、最も怖いのが「傷痍軍人」からの電話や訪問であった。

なぜそうなったかを、戦場の話を具体的に相手が話すのである。

そして体の一部がないのである。

戦場でなぜなくなったか祖父が話をしてくれた。

お尻がない方もいた。

生々しい話はとても怖かった。

 

そして、いつも聞き終わって深く考えさせられるのが、なぜAは死んで行って、なぜBは生き残ったかである。

勇敢で、体力のあるものから死んでいった。突撃していった。

聞き終わって、私はどっちであろうかと深く考え込んだ。

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講演会で、長崎や広島、山口を訪れることが多くなった。

なぜか、私の足は原爆投下の跡や人間魚雷の回天基地跡を訪れる。

そして、考え込む。

国ってなんだろう。

戦争ってなんだろう。

命ってなんだろうかと。

 

■山口県大津島 人間魚雷、回天のレプリカの前で立ち竦んで。我が親族も入った。

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