バレーボールに夢中になっていた10代の頃(キャプテン、全日本高校選抜選手、ブロック大会優勝、そして大歓声)
私は、高校生の時に、進学校に行ったこともあって、全日本大会に主将のエースアタッカーで出場したにもかかわらず高校では勉強に専念した。
毎日の勉強が本当に新鮮であった。
特に、英語の教師の発音の美しさや英語の文章のうつくしさや西洋の文物を紹介する文章の興味深さは格別であった。
また、数学の論理展開の面白さは、これが論理、数学かと惹かれるだけひかれ、それに浸っていた。
特に、K先生の数学談義はまったく至上のものであった。
そうこうするうちに、バレーボールのことはすっかり忘れていた。
故郷に帰った時に後輩の指導をするのが楽しみであった。これがバレーとの接点であった。
しかし、2年生に近くなったときに、球技大会があり、その時に思いっきり活躍してしまった。
そうすると、強力なオルグが始まり、後はまたまたバレーボールにのめりこんでしまった。
そして、級友を誘ってバレーをやり、そのうちに私は関係者の目につくようになり、松下や実業団、そして、大学からの誘いが始まった。
そこで、母や父が反対するにもかかわらず、全日本の選抜選手を引き受け、合宿などに参加してしまった。
【閑話休題】
私は、19歳以降にこれと言ってスポーツをしていない。
怠惰のせいもあろう。
しかし、中学・高校とやりすぎたことが大きく原因していることは間違いない。
中学は全国大会での主将であった。種目はバレーボール。故郷で熱中した。
高校では、私は、【全日本高校選抜選手】だった。
当時は、バレーボールが男子と女子ともに世界的にトップに通用する時代であり、その選手層を広げるために
高校選抜制度をとり、合宿等が行われた。
私は、そこに参加したのだ。
全日本クラスでは私は身長が低い方に入り、セッターが適任だった。
しかし、エースアタッカーで通してきたものが、常時セッターではやりきれない。
攻撃陣になってもすっきりしなかった。
M社などの企業チームや大学に誘いがあり内定まで行ったこともあったが結局行かなかった。
また、学校の先生になって指導現場に入ることを強く勧められたが、こちらもパスしてしまった。
母校のチームの指導で数県ブロックの大会で優勝してこちらも適任と言われたのに。
これらの人生の選択が正しかったのであろうか。
人生に正解はないであろうが、その後の中途半端な人生を考えると、少なくともその道を選ばなかったのは疑問符が残る。
ひとはそうそう全身全霊で打ち込めるものはないのだ。器用に生きることはなかなか難しいことである。
なかった人生を想像してみる。そこに展開されるであろう諸々を想像してみる。
振り返ることは辛いことである。
人生は二度とはないのだな。
なお、遠目で見えないものを見ようとしている自分がいる。